死んだ後、どこで眠るのか。
少し長くなります。
父が亡くなったこともお話しするので。
よろしくお願いします。
わたしは、数年前から「お墓以外」と、本気で考えるようになりました。
きっかけは、父の死です。
父の死が、わたしに、死を身近なものに感じさせてくれました。
両親は離婚したので、父とは離れて暮らし、連絡もとっていませんでした。
父はどんな死に方をしたかったのか、どんな葬式をしたかったのか、どんな供養をされたかったのか
何も知らなかったし、考えたこともなかった。
突然やってくる、独り身の孤独な人の死。
亡くなった人は、亡くなった瞬間から、この世でのことは何もできなくなります。
けれども、この世でやらなければいけないことが、ある。まだある。
亡くなった人に代わってやらなければいけない。
手続きをしなければいけない。
火葬しなければいけない。
遺骨はどこかに置かなければいけない。
母は、顔を背けていました。
父には、わたしたち子供しかいないんだと悟りました。
親だから、子だからと言っても、できない場合もあります。
みんながみんな、孤独に亡くなった人に何かをしてあげられるわけではありません。
わたしたちは、拒否しなかった。ただ、それだけです。
そして、何をするかは、期待しないで欲しい。
何をするかは、生きてる側が考え、選びます。
だからこそ、拒否しなかったんです。
できることで十分
わたしは、できることだけしよう。そう考えていました。
決して無理はしない。そう決めていました。
できる人はすればいい
してあげたいと思う人はやればいい。
やることを止めるわけではないです。
わたしは、やってあげたくてもできない人に向けて言っています。
できないからといって、自責の念を抱く必要はない。そう伝えたい。
大事なのは、弔う方法ではなく、弔う心だから。
無理をする必要はない。
できることを精一杯やればいい。
優先にするのは、生きる人のこと。
逝く先はみんな同じ。そこから天国か地獄かは、故人の生き方で決まっている。
残された人の選択で、亡くなった人のあちらの世界での何かが変わるなんて、そんなのないと思いませんか。
生きているうちに
残された者が、故人のあちらの世界での幸せを願う気持ち、わかります。
あの世の移住期間、住み心地、輪廻転生するのか、それはいつなのか。
優遇されるならお願いしておきたくもなる。
あちらの世界のことは、誰にもわからない。
不安で、幸せを願うあまりに、無理をしてしまう傾向がある。
けれども、あちらの世界での幸せは、死んでからお願いするものではありません。
生きているうちに、そう願って日々を生きておくべき。
努力するのも、恩恵を受けるのも、自分自身。自分にしかできない。
功徳を積むべきとはこういうことなんですよね。
間違いなく、死んだ後で誰かにお願いしてもらうものではない、と考えます。
わたしが父にできたこと
わたしが父にできたことは、最低限のことでした。
わたしたち兄弟が無理せずできること。
父の希望はわからないと言いましたが、わかっていたとしても、無理なことならしなかったと思います。
盛大に葬式をあげて欲しいとか、ただ希望を言われるだけでは、叶えることなどできません。
わたしは、やりません。
決めるのは、生きている側です。
残された者の、「思い」でやるしかないんです。
火葬場で兄弟が集まり、火葬の間待ちました。
これだけで親孝行ではないですか。
わたしたちにとっても、いい思い出です。
亡くなった人に、たくさんのことをしてあげるのは、余裕のある人にしかできないことだと思うんです。
今から借金をして、お墓を建てるなんて気持ちにはならないし、
お墓の管理を未来永劫誰に頼むかという悩みも、持ちたくなかった。
それは、離婚した父だったからなのか。
いや違います。自分がお墓に入りたいとは思っていないからです。
お墓を持つことは、すごく大きなこと。
一生大事に守らなければいけなくなる。
物を言わない亡くなった人が眠っている場所だから。
それが、すごい重荷になると思うんです。
自分だけじゃなく、これから巣立つ子供たちにも重荷になる。
無理はしたくないわたしの思いに、反するんです。
わたしが頑なに「無理はしない」と心に決めているのは、自分の経験からだと思います。
無理をしては、続かない、いつかは壊れてしまう
後々で悩ましい問題となるなら、そうならないように、最初から持ちたくない。
父から恨まれるとは思っていません。そんなはずはない、父親ですもの。そう信じています。

お父さん、何か言いたいならどうぞ!こっちも話したいことあるからね!
今までよく目にしたことは、当たり前のこと?
お寺、お坊さん、お経、位牌、戒名、遺影、焼香、お花、祭壇、お通夜、お葬式、出棺、今まで目にしたこと。
親戚のお葬式に出ると、その裏事情なるものを聞くことが多くなってきました。
身内だからこそ、飛び交う会話。
当たり前のその儀式には、すごいお金がかかるといいうもの。
その中には、驚く内容のもの、本当なの?と戸惑うものも!
久しぶりに会うおじさんやおばさんが、おもしろくも話してくれるので、笑ってしまいました。
お金があれば祭壇が立派になり、花も多いとか
あちらの世界での名前はお金を払えばいい名前がつくとか
なんでもオプションになっているとか
経験された方なら、もっとたくさんのエピソードをお持ちではないですかね〜。
そんな話を聞くと、「その時がきたら大変だな」「できるかな」それが、正直な気持ちでした。
そして、父が亡くなったと連絡がありました。
わけがわからずも、悩む時間などありません。兄弟が病院に出向き相談しながら、手続きを進めてくれました。
わたしたちがどうにかしなきゃ、父の最後をやらなきゃ、その一心です。
わたしたちは、弔い方に選択肢があることを知りました。
思いもしなかった選択肢、無理しなくていい選択肢、わたしたちにできる弔い方。
こうじゃなきゃいけない、なんてない。
わたしたちも、わたしたちの弔い方で父を見送る。
決めたわたしたちの見送り方
父の弔い方は、子供の頃から見た儀式とは違いましたが、父は骨になれました。
わたしの父の見送り方、簡単に説明しますね。
葬儀社の方と相談して、何のオプションもない、基本のことだけをお願いしました。
父は、病院から火葬場に行きました。
兄弟が揃い、火葬、わたしたちは待合部屋で過ごしました。
拾骨し、骨壷に納め、家に連れて帰りました。
その先の、行き先があるわけではありません。
父には、お墓もなければ、新しい家族もなかった。
わたしは、お墓がないのはどうでもよくて。
ただその時は、父が寂しくないように。一緒にいてあげよう、そうしたかった。
火葬場で、久しぶり見た父の顔は苦しそうで、ひとりってなんて寂しいんだと震えました。
その顔はしばらく頭から離れませんでした。
骨壷は、仏壇を設置できるようなスペースがあったので、そこに置きました。
決して静かではありません。子供もいるので騒がしいはず。
だけど、それがいいんじゃないかな。
もう一度、家族という中で過ごしてみたらどう?寂しくないやろ?
父への、最後のプレゼントでした。
気がかりの消し方
父から恨まれない!にしても、気がかりではありました。
父があちらの世界でどう扱われるのか、生まれ変われるのか。
わたしは罰当たりなのか、道を外しているのか・・・
目に見えない何かに、背筋がゾクッとするような・・・そんな不安はありました。
わたしは、これでいいのかという言い知れない不安を抱えたままで、しばらく過ごしました。
今こうしてお話できるのは、それから本を読んだりして、自分なりに調べたからです。
不安を消せたからなんです。
儀式を否定するわけでも、わたしの弔い方が正しいと言うわけでもありません。
気がかりは消せました。
正しい、間違い、普通、人が人を弔う時、そういったものはないんです。
世界にはいろんな宗教があって、生や死に対する考え方も、さまざま。
お墓を建てても、その後管理してくれる人が途絶えると、お墓をなくすことだってあるんです。
昨今のお墓事情、いろいろと拝見しました。
墓じまいや永代供養に関心を持つ方が多いそうです。
核家族化が進み、お墓を維持管理するのは、とても悩ましい問題のようです。
そんないろいろを見ていると、やはり気持ちが大事かなと思えてきました。
道中が違っても、逝く世界は同じなんです。
無理はよくない、続かない
神様は、誠実に生きた人みんなに、平等なはず。
父には「お父さん、最後は幸せやったやろ」って言っています。
わたしはこれでよかったと思います。
父の骨は全て海に還し、お墓もなければ、位牌もない。
心にいるだけです。
誰しも、ひとりで逝くんです。
残された人が、無理して日常生活を圧迫するようなこと、しなくていい。
そこに、故人に対する大きな意味は、ない。
あるのは、自分自身への意味だけ。
生きている、あなたの方が大事だということ、忘れないでください。